最初から愛情がないのに離れることもできない問題について

過去投稿分(2016年12月~2023年12月)
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「愛情はなくなるけど、情は残る」

とは、自分の両親を見ていて思う。

もちろんお互いの愛情があったから結婚したのだろうけれど。銀婚式をとうに超えて、めざせ金婚式だ。銀婚式、金婚式はよく聞くけれども、それ以外にも年数によっていろいろな呼び方があるようで。結婚1年目が結婚式、2年目が藁婚式、10年目で錫婚式、20年で磁気婚式。藁から錫へ変わり磁気となるように、だんだん柔らかいものから硬いものに名前が変わっていく。

母親の愚痴なんか聞いていると最初は父親がどうだこうだと言いつつ、帰るときにはしっかりお土産を選んでいくので、情があるってこういうことなんだろうとは思う。

で、うちの場合である。うちにいる同居人についてである。

わたしの家にはアロエのアロニー君がベランダにのさばっていて、私はこのアロニー君に愛情が持てないでいる。今の家に引っ越してきたときからずっと一緒に住んでいるのだけれど、「可愛い」とか「成長を見ると和む」とか「こまめに世話してあげないと」という気持ちがまったくわかない。本当にただベランダにのさばっているだけなのだ。

元々は私が高校生の時のバザーで買った子だった。その時は小さな鉢植えにちょこんと納まって、うぶな感じがしていたのを覚えている。植物を育てるよりも枯らすほうが得意な私は、アロニー君をベランダに放置して忘れてしまっていた。

長い長い時間が経過する。

そして今の家に引っ越すことになったとき、久々に成長したアロニー君を見たのである。

アロニー君はもう、初めて会った頃のうぶな面影はどこにもなかった。鉢植えから思いっきりはみ出して、とげとげした葉っぱをこれでもかと広げていた。広げているだけでなく、自分の分身を作ってアロニー君2号、息子アロニー君まで作っていた。

父親は農家の出身で、ベランダで鉢植えを育てるのを楽しみにしていて、私が放置プレーをしているアロニー君を株分けしておいてくれたのである。

アロエは非常に生命力の強い植物で、種類にもよるけどヨーグルトやら化粧水やら食品やらと、私たちの身近な生活を支えてくれている。うちにいるアロニー君もそうで、生命力が半端じゃない。とげとげの葉っぱは弾力がありながらも頑丈。栄養は雨水だけで生き延びられる。しかも毎日はいらない。油虫に襲われる苺の苗やすぐ水を濁らせるガーベラのようなお手入れがまるでいらない。まわりの世話なんか必要としないもんだから、なんというか、その、可愛げがない。

それは、父親も同じだったらしく、「おい、こいつ捨てるぞ。花も咲かねぇし、緑のまんまで面白くない」と言われたので、捨てるくらいならとうちに引き取った。

昔から草木に囲まれて育った父親は植物を捨てるとか処分するとかにまったくためらいがない。そこらへんにあるじゃないか、ひとつふたつ捨てたくらいで何を今更、という感覚なのだろう。農家はいわば植物のプロだ。見慣れている、珍しくもない、だから容赦もない。

私はというと、どうも間引きとかが苦手。もちろん一番元気のいい芽を育てるためには、育ちの悪い芽は詰んでしまわないといけない。それはわかっている。わかっているけれど、土から引き抜かれたらその芽は死んでしまう。せっかく生えてきたのに、もう育たなくなってしまう。間引かれた芽を見ながらそんなことを考えてしまう。

ということで、アロニー君も捨てるに忍びず、引き取って、そして離れられない。

 

可愛くない、というか愛情をもてない。もてないけど、捨てることもできない。これって情はあるってことなんだろうか?物を手放すのはためらいがないんだけれど、相手が生きている場合はむずかしい。愛情が持てなくても、愛想もなんにもなくても、アロニー君はアロニー君で生きているしなあ。

 

まあ、いいか。白と黒ばかりじゃないよね。愛してないけど、気の済むまで(枯れるまで?)うちにいるといいよ。

 

アロニー君と息子アロニー君はいまもうちにいる。

「あなたのお世話がなくとも生きていけますから、勝手にやらせていただきまっせ」といわんばかりに今日も元気にツンツンした葉っぱを茂らせている。

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