長い。
つり革を握る手がまたずり落ちてきた。痺れすぎている。力を入れ直すのが精一杯。
左肘にはバッグと傘とカレールーの入った紙袋がかかっている。
人で混みすぎていてまったく身動きがとれない。
ついていないことに左右とも男性なので押されて肩も縮めがちだ。
長い。
いつになったら最寄り駅に着くんだろう。
まだ雨だけど、雪に変わったら電車が大変だろうなあ。
うっかり洗濯物を干してしまったから、ぐっしょり濡れているだろうな。
インフルエンザの熱がようやく引いた。37度台から下がってくれず、散々やきもきしたけれど、
ようやく36度半ばになった。ああ、普通の体温って素晴らしい!実に約1週間ぶりの平熱にありがたさを感じた。
で、帰りの通勤電車である。いつもと変わらない満員電車である。今日はちょうどピークにぶつかりぎゅうぎゅう詰めになった。こちらの平常通りはちっとも嬉しくない。
「ちょちょら様いらっしゃいませんか?」
ふと頭の中に言葉が浮かんでくる。
ちょちょら様いらっしゃいませんか?
いつのまにか今朝見たお江戸言葉広告「ちょちょら」を脳内再生していた。もう、これはまったく役にも立たないんだけれど、私は特定の言葉を繰り返し再生するのが大好きらしい。らしいというのは、別に条件を決めて選んでいるわけではない。普段の生活の中で、いくつかが自動的に再生対象に選ばれるからだ。昔にはこんなこともあったっけね。
変わっていないのである(涙)
広告の「ちょちょら」。ちょちょらの意味は調子が良くてたまにやらかしてしまう人のことを指していて、電車内なのになぜかキャビンアテンダントのような格好をした女性が「ちょちょら様いらっしゃいませんか?」と乗客に助けを求めていた。そしてサラリーマン風の男性が「俺のこと?」と自分を指差してキャビンさんが気づくのをまっている内容だった。
なんで電車の中でキャビンアテンダントが乗客へちょちょら様のことを聞いているんだろう?そもそもちょちょら様を探さなければいけない状況って何?
と、見た時に思ったのが原因かもしれない。しかし、状況設定がまったくわからない。わからないけど想像してごらん?忖度してごらんなさい?というメッセージがもしかしたら込められているのかもしれないと思わなくもない。素直に状況設定を想像してみた。
なりきりコスプレイヤー若王子吉子(仮名)はその日、ある決意をこめて電車に乗っていた。
憧れの絵師西園寺欣也(偽名)からサインをもらうのだ。
吉子が西園寺欣也の絵を始めて見たのは富士見ファンタジア文庫のイラストだった。
中学生の時にどはまりした「シンガーズ!」。
その挿画を担当していたのが当時新人で売り出し中のイラストレーター西園寺欣也。
美貌の姉、玉子と自分を比べて落ち込み、学校ではスクールカーストの中で苦しむ吉子にとってシンガーズの世界に没頭することは、数少ない自分の居場所であり心の拠り所であった。
学生時代こそ大人しかったものの、吉子は大学時代の友達にコスプレに誘われたことで、別な自分の表現方法に活路を見出すようになる。コスプレをしている自分、それは自分であって自分でない。コミケに参加して注目を浴びることに快感を覚える吉子。こんな自分もいるんだ。吉子はコスプレに夢中になる。
そして中でもよくするのがキャビンアテンダントのコスプレだった。
キャビンアテンダント。それは姉の玉子の仕事だった。
そう、吉子にとって玉子は今でも葛藤の大元であり続けた。
なぜ姉は……。
本人のコンプレックスは別にして、コスプレをきっかけとして大学デビューを果たした吉子の外見も実はとても美しいのだが、吉子はどうしても悩みがぬぐいきれなかった。
そんな中、自分の最も苦しい時代を支えてくれた西園寺欣也のサイン会が開かれると友達から教えてもらった吉子。尊敬と感謝を込めてキャビンアテンダントの格好で参加を決意する。
長年の憧れの人にサインをもらうんだ。
そう決意しながら電車にのっていた吉子だったが、突然目の前の男性が倒れる。
怖がりながらも声をかけようとする吉子に「すまないが、前の車両にいる「ちょちょら」という男性を呼んできてくれないか?」サラリーマン風の男性は依頼する。
は?ちょちょら?この人何言ってんの?吉子は困惑する。
そんな吉子に男性は頼む、頼むと繰り返し懇願してくる。額には汗が滲んでいた。
男性を座席に座らせ、吉子は意を決して前の車両に駆け込む。
「ちょちょら様、ちょちょら様いらっしゃいませんか?」
その時、一人の男性が立ち上がる。
という、状況だったのかもしれない。(✳︎富士見ファンタジア文庫シンガーズ!はもちろんフィクションです)
ようやく電車は駅についた。
ちょちょら。
すぐに意味がわからなくて、「ちょ」が二つ重なっている不思議な言葉だ。
通勤電車にぎゅうぎゅうづめの日々が重なっていくことの意味ってあるんだろうか?
そう、問いかけてみるけど、答えははっきりしない。
達成したい目標があり、また、インフルエンザにかかって中断したりで、生きているといろんなことがある。
それでも、1日1日大事にして生きようと思う。通勤電車を繰り返したとしても。