いかがおすごしでしょうか?
まさに夏ど真ん中。東京駅に行けば人だらけ。
元々人にあふれた駅ではありますが、今の季節は沢山の荷物を抱えた親子連れや真っ黒に日焼けした兄弟や年配の夫婦など、いつもとはあきらかに客層が違います。私はどうやらお盆も仕事ですが。はははは。
学校が休みになるこの季節、宿題は8月31日にするものと決意し、遊び倒したものです。
その中でどうしても苦手な科目がありました。
それは数学です。
数学。
特に苦手なのは証明です。忘れたくても忘れられません。
自分が受験した公立高校の数学の最後の設問が証明問題だったのです。
あの図形が出てきて、線を引っ張って、〇〇であることを証明せよっていう問題ですよ。
設問の最終でぎらぎらと構えるラスボス。
マリオにおけるクッパ、会社における年度末、結婚式前における花嫁のダイエットのごとく凶悪な問題だったのです。
みごとに証明問題が解けなかったことは、数学に対する苦手意識をさらに強めてしまい、以後、数学と証明問題は黒歴史になったのであります。
しかし、そんな数学と証明問題への意識は修正されることになりました。
それは藤原正彦さんの「天才の栄光と挫折 数学者列伝」を読んだ時でした。
歴史に名だたる数学者の軌跡を追った内容なのですが、その中でインドの数学者ラマヌジャンが登場します。
ラマヌジャンは夭逝した天才なのですが、何故彼という才能が生まれ育ったのかわからないといわれるほど、生み出した公式は難解なものばかりだそうです。
そして、美しい。
美しい公式?
数学の公式が美しい?
私は衝撃を受けました。
あの、憂鬱な問いかけばかりしてくる印象しかなかった数学の公式が美しいだなんて。
美しいものに人間はひきつけられる。
もうこれはどうしようもない性質なのでしょう。
「美しい公式、私も見てみたい」
と、思ったのです。
が、問題は私には数学の知識が皆無だということです。
受験の時に証明攻撃にさらされ、私の数学の庭は壊滅しました。
土地はやせ細り、野ざらしのまま、はや20年は経過しています。
知識なければ公式が美しいのか美しくないのか判断できません。
く、くやしい。
この時ほど数学の知識がないことを悔やんだことはありませんでした。
以来、数学に関していつか足をつっこんでみたい、いつかもう一歩足を踏み出してみたいと思うようになり、今に至っています。
いつか、いつか、と思いながら。
そして、それは昨年の年末のことでした。
その時、私はシャワーを浴びていました。
家の浴室は3点ユニットなので、ビジネスホテルの3点ユニットのように結構せまいのです。
バスタブのすぐ右となりは洗面台になっているのですが、シャワーフックにシャワーをひっかけて、ちょっと洗面台まで手を伸ばして体をひねったときです。
ゴッ
ガラガラン
肘がシャワーに当たったなあーとおもったまではよかったのです。
ガラガラン???
なにが落ちたんだろうとよく見たら、シャワーヘッドがバスタブに落ちていました。
!!!
シャワーヘッドは根元からパックリ叩ききられ、無残に転がっているのです。
どうやら体をひねったときの反動が大きかったらしく、私はいとも簡単に肘でシャワーヘッドを破壊していまいました。
なんてことだ……
シャワーヘッド自体は本体と離れてしまいましたが、水はいつも通りでます。お湯で体を流しながら私は大家さんに連絡するべきか自分で修理すべきか悩みました。
どうしよう。
どうしよう。
たとえ修理しても大家さんには説明しなければなりません。
そして、想像してみます。私が状況説明している場面を。
私「すいません、じつは肘でシャワーヘッド壊してしまいました」
大「は?」
「は?」とか言われそうじゃないですか。
肘でシャワーヘッドを叩き割る女性が果たしてどれくらいいるのか私にはわかりません。
そしてそれを調査する機会も訪れそうにありません。
この際、てへっとか末尾につければごまかせるんでしょうか?
どうなんだろう、てへっの効果は。
ああ。
事実を告げた瞬間から大家さんの中で私はシャワーヘッドを肘で叩き割った店子さんに変わるのです。
なんて恐ろしいことなのか!!
そして私の導き出した答えは……
放置
「ホームセンターで道具買ってきてなおしてあげようか?」との申し出や、詳しい画像送ってとのありがたい
声を聞きながら、今日もお湯をだばだば出しながら私はシャワーを浴びました。
いつか足をつっこんでみなければ、いつかもう一歩足を踏み出さなければ……と思いながら。
はい、大家さんにさっさと連絡します。
今日は全国で猛暑のようです。
熱中症に気を付けてみなさん、夏を満喫してくださいね。
いってらっしゃい。