しょっぱなから短い日記ですが、更新していきます。
って、記事すら書いていないのを公開してた!ごめんなさい!(汗)
GWにて平成と令話の時代越し(N◯Kに倣ってみる)を実家で迎える。
年末年始の感じがすごかった。渋谷でカウントダウンとか、ほとんどの仕事がおやすみだとか。
令和おめでとうメールもしてますます新年のようだった。
夕方になって母親は身体のあちこちが痛くなる。
痛みが移るらしく、どこが原因かわからない。
顎が痛い、頭が痛い、肋骨が痛い。
苦しそうに伝えてきて、こちらもあちこちをさすった。
肩を揉んだり、背中をさすったり、足のマッサージをしたり。
昨年手術をした母親である。
患部は痛むかと聞いたけど、そこはまったく痛くないらしい。
身体が痛むこと自体は喜ばしいことではないけど、
それだけでも少しほっとする。
どれくらいさすったりしていたのか。
次第に呼吸も落ち着いてきて「夕飯食べる🎵」と言い出した。
その後は父親の作ってくれた、鳥の照り焼きと餃子を食べた。
ほっとしたので、納豆にご飯をかけておかわりをしようとおもったら
「食い過ぎ」と父親にたしなめられた。
ちぇ。
母親はその後で順調にお風呂に入り、痛いと再び訴えることもなく寝た。
しかし、今度は私のほうが疲れてしまってしばらく動けなくなる。
わかりやすい。わかりやすくて思わず笑ってしまう。
自分が人にしてあげられることは、実際はほんのわずかだ。
身近な人が病を得るといつも思い知らされる。
決してかわってあげることはできない。
目の前で痛みにのたうちまわる姿を見ていても、
やっぱり身体をさすったり、
言葉をかけたり、
入退院の手伝いをしたり、
細々とした些細なことしかできない。
その些細さにどうしようもなくなったりする。
去年、母親が入退院した時は特に強く感じた。
一番苦しいのは病を得ている本人なのだから、自分の感傷くらいなんだ。
と思っても。
割り切れるものではないから、それは割り切れないものとして抱えていくのが大事なのかな。
割り切れないからって考えるのをやめるとか変に明るくなるとかも違う。
それはそれとする。
なんだよ自分のできることはとっても小さいんだな、
とか思いつつ、でも自分を責めることもしない。
毎日、朝は来て陽が沈んで夜の帳が落ちる。
自分を責めてそこで沈みっぱなしというわけにはいかない。
できることを淡々としていく。
自分のできる些細なことに思い切り力をこめる。
たまにはポンコツになって。だーらだらして何の役にもたたない。サービスもしない。
ぐでたまになる。ぐで〜とかひとりごとつぶやいてもいいかもしれない。
急に身体が痛くなった母親と、今までのことをふりかえってそんなことを思った。
「あ、そうだ今日は午前中に◯リガリくんと西瓜を食べたから、身体が痛くなったのかも〜」
夕飯を食べながら母親は言った。
そうかなあ。
違うような気がするけどなあ。