先日、猫をお世話する機会に恵まれた。
彼らは3匹の猫ちゃん。
友達が出張するというので、餌をあげたりトイレを綺麗にするといった程度だったけれど、たくさんのことを猫ちゃんから教えてもらった。
以前からの顔見知りとはいえ、飼い主である友人がいない状態はさぞや怖いことだったと思う。
今自分のテリトリーにいる人間は何をするかわからない。
でも、お腹はすくし、トイレは清潔じゃないといやだし、夜がきたなら安心して寝たい。
猫ちゃんはご飯や排泄をするとき以外でも、実に見るともなく私の行動を見ていた。
目の前の人間がどういう種類の人間なのかを観察して、彼らなりのジャッジを下して、段階的に私に近づいてきてくれるようになった。
見るともなく見る。
それは、普段猫と暮らしていない私にも特に必要だった。
今お腹が空いているのか、どうしたいのか、なにか不快なことはないのか、鳴き声はどうか、動きはどうか、どんな表情をしているのか。何を見てどう感じているのか。
同じ言語は使えないから、相手のことを理解しようとするなら、こちらからも能動的に受動的という矛盾したような態度がだいじなんだときづかされた。
先日、誕生日を迎えて一つ年齢が増えた。
タイミングを合わせたかのように、公私にわたっていろんな人との関わりかたが変わってきたし、変わるような出来事が訪れて、ありがたいやら驚くやらでびっくりすることばかりが続いた。
その中で、わたしにとってのたからものは、一人ひとりと培ってきた時間や関係性なんだな、と改めて気づいた。
一応同じ種族だから、そして同じ言語を使っているから、相手の発している言葉はわかる。
でも、本当に目の前の人をよくわかっていくなら、どうしても時間や体験の共有は大切だし、よく見ていくって必要なんだと思う。
見るともなく見る。
丁寧に、一つひとつの出来事や課題や縁のある方達と関わっていきたい。
ひとまず、わたしに言えるのはありがとうくらいなものです。
めでたく(ある意味切なく!)年齢を重ねることができました。
ありがとうございます。