あたらしい風を吹かせる役割のよそ者と、その土地に根を張って活動している地元の人たち、
そんないわば風の人と土の人が一緒になってはじめて新しい風土がうまれる。
(藤本智士著「魔法をかける編集」より)
「魔法をかける編集」という書籍の一節にこんな言葉がある。
筆者の藤本智士氏は土地の垣根、雑誌作りの垣根、いろんな垣根を超えて活躍する編集者であり執筆者で、ようやくインフルエンザから回復した週末に、私はこの書籍を読む機会に恵まれた。
理想とするビジョンをメディアを活用して実現させようとする広い意味での「編集者」としての活躍が記されているのだけれど、上の一節に出会った時に私は自分の旅を思い出した。
ああ、ちゃんと文字に起こしてみよう。
そう、思えたのが嬉しかった。
昨年末、インタビューをして記事に起こすというツアーに参加して、その時に体験したことはいろんな感情がごちゃまぜになっていて、どう言葉にしていいのかわからないままだったから。今回は前後編で旅の内容を記します。
宮城県山元町のこと
東京から新幹線で約1時間30分。仙台駅を経由して常磐線に揺られること40分、山下駅下車。のところを高速バスに揺られて仙台までの道のりを辿った。
私は真冬の宮城県ということで極寒の気候を想定していたのだけれど、比較的暖かかい。
山元町は宮城県の中でも南部に位置しており、太平洋に面した沿岸部から平野を経て常磐自動車道の走る山間部に繋がっている。
海と平野と山で成り立つ地形では大きな津波がきたときに、遮るものが何もない。山元町は2011年の東日本大震災の時に多くの犠牲者を出した土地でもあった。
津波と写真館
有志で運営されている震災当時の様子を伝える写真館には、当時の写真や報道された新聞などが展示されていた。
震災当時、陸前高田や閖上地区の名前は報道で何回も聞いていたけれど、私は今回の旅にくるまで山元町のことを恥ずかしながら何にも知らなかった。
疑問が湧いてくる。
なんで山元町のことを私は聞かなかったのだろう?もしかしたら、私が聞いていなかっただけで、何回も伝えられていたのかもしれない。どちらなのかはわからなかった。
津波から命を守った小学校
車は沿岸部をひた走っていた。
更地がずっと続き、工事途中なのかところどころにおいてある重機がひっそりと佇んでいる。
案内してくれた女性によると、津波の被害のこともあり、行政で沿岸部に人が住むことを禁止しているということだった。
今も形を残す小学校も沿岸部にある。
地震のあった日、先生方の的確な判断により屋根裏に避難した生徒はことなきを得た。
立ち入り禁止のテープが貼られた学校の屋内は、瓦礫やロッカーが散乱していて、津波の力の凄まじさを物語っていた。
(後編へ続く)