現在の住まいで生活を始めてから2週間が経った。家族に荷物を運ぶのを手伝ってもらい、ようやく始めた新生活。慣れないことばかりの毎日はそれなりに大変だ。転入届けの手続きをしたら、ご当地の野球かサッカーの観戦チケットをいただいたり(前のところはなかった)、ミックスペーパーは燃えるゴミ扱いである。気づいたら引っ越してから太陽は14回も昇って沈んでいた。
いかん。
こんな調子であっという間に2020年も来そうだ。
ということで、忘れないうちに引っ越し備忘録を書いておく。
また同じことをしないようにとの願いもこめて。
「ない」
私があることに気づいたのは、以前の家の契約終了前日だった。その時点で荷物を全て運び終わってから一週間が経っている。あるものがない。家のどこを探しても見当たらない。大きめのものだから、どこかに紛れていることはあり得なかった。だから、結論はひとつ。
「掃除機を前の家に忘れた」
だった。
翌日は契約終了日。本当は借りていたマスターキーが賃貸管理会社に郵送されていなければいけない。しかし、ガスの閉栓立会いと粗大ゴミ出しも明日である。そして掃除機もおそらく家におきっぱなしだ。鍵の返却が間に合わないぞ。なんかこう、もっと早くできなかったのだろうか。全てにおいて。自分がやったことだけど。
そして、私はキャリーケースを持って掃除機を迎えに行くことにした。ついでにガスの閉栓と粗大ゴミも出すことになった。賃貸会社に鍵は直接持っていくことにする。なんかこう、もっと早く(以下既出)。
その日はちょうど即位礼正殿の儀の祝日である。午前中からざあざあと激しい雨が降る中、私は掃除機を求めて、電車に揺られていた。東京に低い虹がかかる奇跡が起きた時、私は旧我が家にたどり着いた。
いた。
今まで散々主人に振り回されてあちこちのゴミを吸ってきた水色の戦士は、最盛期の姿のまま、ひっそりと家財道具一切のなくなった家で、傍若無人な持ち主の帰りをひっそりと待っていた。
「今までどこに行ってたわけ?」
とか言われそうな圧だった。戦士は戦士でも女戦士である。
圧を感じつつ、ガスの閉栓と粗大ゴミ出しを終えた悪徳主人は、水色の戦士をバラバラに解体した。胴体をキャリーケースにつめ、ホースをその隙間に埋める。どうしても入りきらない長さの柄はリュックサックに詰め込んだ。
電車にはいろんなものが持ち込まれる。つり革に捕まりながらチーズスナックを食べている人もいるし、ネイルを塗っている女性もいる。その瞬間、その車両だけネイル・トレインになっている。なんとなくロマンチックな名前に反して、車内に広がるのはあのネイル独特の臭いである。電車は修行の場でもあるのだ。
その日、電車内には私と一緒に掃除機が乗っていると気づいている人はいなさそうだった。黒のリュックから掃除機の柄がはみ出ていることに興味を持つ人にも出会うことなく、私は無事に、帰り路線を間違えた。無事じゃない。
賃貸管理会社に鍵を返却した私は、快速を選んだ。普段使い慣れない路線だけど、行き先が自宅最寄駅方面だったという安易な理由で。
快速は確かに最終的に行き先に着いた。しかも、私の家の最寄駅とはまったく違う路線を経由して。家で待つ人に公衆電話をかけた。携帯の電池は切れていたし、その日は夕飯を作る約束をしていたのである。
笑われた。
怒られた。
こうして、虹が現れるとき、掃除機は旅に出た。2時間で帰れるところを4時間かかった。4時間ものあいだ、キャリーバックとリュックに掃除機を詰めた成人女性が電車に乗っていたことは、どこにも記されていない。ということを記しておく。